坂本の民話


 全国各地に数多くの民話が言い伝えられていますが、坂本地区にも、弘法大師英雄 視観を伺わせる伝説や、狸に化かされたユニークな話など、いくつかの民話が伝えられています

◎稼勢の蛭子さん

 坂本八幡神社の境内に新しい神殿が鎮座し、その御神札に「蛭子神社」と明記されています。
 稼勢山中腹には、昭和の中頃まで6戸程の集落(稼勢部落)がありました。稼勢山の頂上には蛭子神社のお社があり、少し東にさがった境内の入口には、丸木で作った 鳥居が建ち、さすが神域の気配がただよっていました。
 その昔、降り続く豪雨のために山は荒れはて、畑ものはみのらず、お百姓は困り果 てて、蛭子さまに「1日も早く晴らせたまえ。」と、連日のようにお祈りを続けました。しかし、雨はいっこうにやむ気配もなく降り続き、山や畑は荒れるばかりで、 人々の熱心なお祈りもいっこうに効きめがありません。ついに、ごうをにやしたお百姓の一人は、ご神体をかかえて山をおり、濁流のうず巻く勝浦川に「頼りがいのない神よ、去りたまえ。」と、投げ捨ててしまいました。ご神体は、濁流にもまれながら流れに流れて、丈六(徳島市)の川原に着き、とある人に拾われて、通町(徳島市)のえびす神社にまつられて、今のように繁盛するようになったと言われています。
 その後、どのようにして坂本の稼勢山に再度鎮座されたのかわかりませんが、かつては栄えた稼勢部落も過疎の波にはさからいきれず、一軒減り二軒減って、この神をまつることもおぼつかなくなり、とうとう蛭子さんも下山することに決まり、氏子の寄進で立派な神殿がつくられたのが昭和51年7月で、それからは坂本八幡神社の一角 で、永遠に人々からお参りされるようになりました。
                   『勝浦の民話と伝説』より

◎白仏言

 昔、子どもの頃、お釈迦様の日(4月8日)が近づくと、お寺へ甘茶をもらいに行くのを楽しみにしていました。当日になると急いで学校から帰り、近所の子どもたち大 勢で手に手に色々なビンを持って、お寺へ押しかけました。
 お寺では、一石(180リットル)くらい入る大釜で、甘茶をたいていました。集まった大勢の子どもたちが、釜のまわりを取り囲んで、われ先にと順番を待っていました。体の太くて大きい奥様が、みんなの持ってきた一升びん・五合びんなど色々なビンに、ひしゃくで汗を流しながら入れてくれました。あたり一面に甘いお茶の香りがただよい、 何ともいえない良い感じでした。
 入れてもらったびんを、壊さないように大事にかかえて帰りました。すると、すずりにその甘茶を入れ、墨をすって長さ15cm、幅5cmほどの半紙に「白仏言」と書いて、家の出入り口や窓という窓の横へさかさまに張りつけていました。「どうしてそんなことをするの」とたずねると「長虫(へび)が入れへんのじゃ。」と言われました。
 その後、家のまわりではよく見る長虫も、家の中へ入ってくるのを見ませんでした。
                    『勝浦のむかし話』より

◎裸の上人さん

 昔、坂本の長福寺に、たいそう豪胆な坊さんがいました。朝夕のお経をあげ仏様に おつかえする時とか、檀家の法事に行く時以外は、いつも裸でいましたから、村の人たちは「裸の上人さん」と呼んで尊敬し、そのゆったりとしたお腹の真ん中のおへそが 立派なので、みんな感心していました。
 ある夏の日の午後、一天にわかにかき曇り、ピカッ、ゴロゴロと大夕立になりまし た。そのうち、ひときわ大きな音とともに、長福寺の庭の松の木に雷さんが落ちました。
 裸の上人さんは「これは大変」と、急いで薬師堂の縁からのぞいてみると、雷の落ちた松の木の根本に、小さな太鼓を持ち、クルクルとかしこそうな可愛らしい目をした雷の子が立っているではありませんか。
 裸の上人さんは「坊や、何でこのお寺などに落ちたんぞ。」と聞くと、雷の子は「お坊さんのおへそがあまりにもおいしそうなので、空の上からのぞいていて足を踏みはずして、雲のすきまから落ちてしまったの。」と言いました。「そうか、そんなに好きなら、お寺には亡者(死人のこと)のおへそが壺にいっぱいある。おまえに食わしてやるから上がってこい。」と上人さんは雷の子をお寺の中に入れて、壺の中の亡者のへそをわけてやりました。雷の子は、そのへそをさもうまそうにムシャムシャと食べ、お腹が大きくなったのか眠ってしまいました。
 そうして、その夜中頃に、ボトボトとお寺の戸をたたく音がします。上人さんは「何事だろう、こんな夜中に。」と思いながら戸を開けてみると、昼間の雷の子のお母さんです。「昼間は、子どもが大変失礼しました。いたずら坊やなので、上人さんのおへそを見て、おいしそうだなあ、ほしいなあと踊っていて、足をすべらせてこのお寺の松の木に落ちてしまったのです。どうかお許しくださいませ。」と言うと「いやあ、あまり可愛らしいので亡者のおへそをやったら、腹一杯食べて今は眠っているよ。」と、上人さんが言いました。
 「上人さん、どうぞあの子を返してくださいませ。お願いします。このとおりです。」と、雷のお母さんは目にいっぱい涙をため、手をついて頼みました。上人さんが 「よしよし、返してやるよ。しかし、ここで一つの約束をしないか。そうすれば今すぐ連れて帰ってもいいよ。」と言いますと、雷のお母さんはたいそう喜んで「坊やさえ返してくれるなら、どんな約束でもいたします。」「そうか、ではこれから雷が鳴っても、坂本の村へは今後いっさい雷を落とさないと約束できるか。」と、上人さんが言うと「はい、きっとできます。天上の雷の常会を開き、会の決議で今後いっさい坂本へは 落ちないと約束いたします。どうぞお願いします。」と、雷のお母さんが真剣に言うので、上人さんは雷の坊やを返してやりました。
 そんなことがあってからは、坂本の村へはいっさい雷が落ちなくなったということです。
                    『勝浦の民話と伝説』より

◎極楽の大師水

 坂本の栄田にある大岩の上に「弘法大師御通夜岩」という標柱が立てられています。 これは、弘法大師さまが慈眼寺へ向かう途中、ここでお通夜(一晩中お祈りをするこ と)をされようとしましたが、あまりの寒さのために、近くの民家に泊めてもらうことになりました。
 民家の老女は、寒さにふるえる大師さまを気のどくがり、布を織っていた機織り機を、惜しげもなく折って薪にして、大師さまにあたってもらい、ご飯を炊いてさしあげ親切にもてなしました。大師さまは、老女の親切に感謝しながら一夜を明かし、次の日の朝出発される時「親切なもてなしに、何か礼をしたいのですが、このとおり旅の僧のことなので何もできないが、どんなお礼をしたらよろしいか。」「お礼などいりませんが、ただこのあたりは飲み水がとぼしいのと、霜がたくさん降るので困っています。仏様の力でお救いくださるとありがたいのですが。」と、老女は答えました。
 大師さまが、持っていた杖で土地をつつかれお祈りされると、そこからたちまち清水が噴き出し、それからはどんなに日照りが続いても涸れたことがありません。しかも、この水を霜やけしたところにつけると、たちまちのうちに治るという特効があり、周囲にしめ縄を張りめぐらせて、汚れないよう大切にしています。
 また、大師さまは老女の寒さを思いやり、野に立たれ霜止めのお祈りをされました。それ以来この付近は、どんな寒い日でも霜が降りなくなりましたので、人々はこの付近を「極楽」と呼び、大師堂を建ててお大師さまをおまつりしています。
                  『勝浦の民話と伝説』より

※ 「弘法大師御通夜岩」は坂本字栄田にあり、近くには「お大師さん」がまつられています。
※ 大師堂は坂本字栄田にあり、この「お大師さん」は、霜を降らないようにしたことか ら通称「霜降らず大師」と呼ばれています。また、近くには、清水が噴き出した跡と言われる通称「極楽の大師水」があり、そのすぐそばには老女をまつると言われる祠があります。

◎通夜谷のお月岩

 坂本の松尾に、上弦の月(右半分が輝いている月)の形をした不思議な岩がありま す。昔から土地の人々に「お月岩」と言い伝えられています。
 昔、弘法大師さまが修行でこちらへ来られたとき、ここでお通夜(一晩中お祈りをす ること)をされたところと言われ、東の小谷を「通夜谷」と名づけられています。
 戦国時代に、伊予の武将河野通豊が、土佐の長宗我部元親に攻められて戦死したの で、その子道春と道康は母とともに家臣に守られて、ある日の夕暮れ頃に杖立峠にた どり着きました。一休みして、あちらこちらを眺めていると、はるか西の方に一筋の 光が見えましたので、その光をたよりに疲れた足を引きずりながら、お月岩のところ にたどり着き一夜を明かしました。そして、坂本の松尾に住み着き、新居氏と名の り、世間をしのぶ弟の道康を黄檗に住まわせ、黄檗の鎮守さまに伊予大三島大明神の ご分霊をお招きしておまつりしました。
 その後、道春の次男彦太夫が分家して、毎年旧暦の正月・3月・5月・7月・9月に 代々がまつりついでいます。
                   『勝浦のむかし話』より

※ 「お月岩」は、坂本字生実にあり、すぐ前には小さな建物が建てられており、東側に は通称「通夜谷」と呼ばれる小さな谷があります。
※ 坂本字夷名田には地蔵堂があり、この地蔵堂は、伊予の大豪族河野氏の子孫が、大 三島神社の分霊を奉じてまつっていたものと伝えられています。大正2年に坂本八幡 神社境内に移しました。

◎イボを治すつり鐘

 坂本の松尾というところに、こんもりと茂った森に囲まれて、小さなお堂がありま す。そのお堂の中に、立派な阿弥陀如来の仏像がまつられています。
 昔、この仏像をぬすんだ悪者が、背中に仏像を背おって佐那河内方面へ行く途中、 杖立峠あたりまで来ると、背中の仏像がだんだんと重くなって暴れ出し、どうしても 前に進むことができず、悪者は仕方なく引き返して、仏像をもとのお堂に納めたとい う言い伝えがあります。
 また、このお堂のつり鐘は、イボを治してくれるという言い伝えがあります。イボ を治すには、このつり鐘のイボをひもでくくっておくと、いつの間にかイボがころり と落ちているそうです。
                 『勝浦の民話と伝説』より

※ お堂は、坂本字宮平にあり、「阿弥陀如来堂」と呼ばれています。軒下につられて いる小さなつり鐘のイボには、多くのひもやわらが結ばれています。

◎安部民部の千両箱

 昔、坂本の郷に「安部民部」という人が住んでいました。長者というのは、権力と多 くの財産を持っていて、村人から大変尊敬され、色々なことを相談されていました。 当時の坂本村は、特別にこれといった産物もなく、少しの畑や、川で魚をとったり、 炭焼きが主なもので、収入も不安定で貧しい暮らしで、毎日の生活にも困っている人 が多かったようです。
 民部さんは、何とかして村人の貧しい暮らしをよくしようと、村人たちに田を開い て稲作を、山を開墾して麦や野菜を作ることを進めました。でも、あまりの貧しさ に、それに手をつけることができません。
 そこで、民部さんは何かよい方法はないものかと毎日悩んでいましたが、ふとよい ことを考えつきました。お正月の元旦には、多くの村人たちが長者屋敷へ年始のごあ いさつに来ます。たくさんの村人が集まったとき、長者は「みなさん、私は村のあると ころに千両箱を埋めておきました。その千両箱は掘り出した人にあげます。ただし、 この宝探しは『くわ初め』の日から掘り始めるように。」と言い、さらにつけ加えて 「朝日さし、夕日輝く南下がりの岩の下、黄金千両、有明の月」という千両箱を埋めて あるところを、暗示する短歌を詠みました。
 このような歌を謎歌といいますが、言葉の間に謎を隠したのではなく、「朝日が照 り、夕日が輝く、いつもお日様がさしている南下がりの大岩の下に、黄金千両を埋め てありますよ。」というわかりやすいものです。この話は、いっぺんに村中に知れわた り、村人たちはお正月も休まずに、ここぞという場所を思い思いに掘りまくりまし た。また、このうわさを知った隣村の人たちまでも、鍬を手に手に掘って掘ってしま した。
 民部さんの屋敷のあったところは、今では正確にはわかりませんが、村の中ほどの 屋敷の近くと思われるところに小さな谷の流れがあり、そこを「おとぐち」といって大 きな岩もあり、朝日も夕日もよく照り、ちょうど南下がりの地なので、みんなに一番 に目をつけられて掘られた所です。この「おとぐち」は「音戸口」と書くのが正しいのか も知れませんが、このおとぐちの大岩は、昔雨の降る晩には首なし馬が出るという言 い伝えのあるところで、山桜の老木が大岩にからみついてのびており、また、この大 岩の上には太鼓岩といって太鼓の形をした岩がのっていたそうです。いつか首なし馬 の出る岩も割られて岩の下まで探したそうですが、黄金の出た話は残っていません。
 しかし、太鼓岩は今でも道ばたに残っています。そこの小道をはさんで岩の上に古 いお墓が3基建てられています。古くなって再建されたらしく、舟形で真ん中に「民 部」とあり「居士」の霊位がつけられています。この民部さんの「千両箱を掘り出せ」とい う話は、民部さんが村人に田や畑を開墾しなさいと言っても、村人が立ちあがらなか ったために考えついた策略で、開墾してみかんや柿を植えたり、稲作をして村人を貧 しさから抜け出させようとしたものだろうということです。
                  『勝浦の民話と伝説』より

※ 「安部民部」のお墓は、坂本字平野にあります。その東側には小さな谷があり、この 谷のことを通称「みんぶだに」と呼んでいます。

◎狸に芝居を教えられた人
 
 昔々のお話です。坂本の辻やんと佐太やんの2人が、徳島から帰りのことです。と ことこと歩いてのことで、だいぶ夜もふけた頃、与川内と坂本の境あたりにさしかか った時のことです。
 「辻やん、あんなところで芝居やんりょるぞ。」坂本と与川内境の川向こうは、芝居 などするところでないはずです。「佐太やん、こりゃおかしいぞ。」そんなことを言い ながらも、芝居好きの2人は芝居小屋に立ち寄りました。
 舞台はちょうど太閤記の十段目、光秀が母を刺し妻がいさめいている愁嘆場(嘆き悲 しむところ)で、大勢の村人にまじって2人も夢中になり、見とれていましたが力が入 ってまねてみました。「できる。佐太やん、わい光秀になるわ。」「おまえが立役(芝居 の中の主役)なら、わいは女形(男だが女の役ばかりする人)をやるぞ。」2人が得意げ に話しました。
 その時、突然にたくさんの犬がほえだしました。するとどうしたことか、一陣の風 とともに芝居小屋はくずれさり、2人は田んぼの中で目が覚めました。村の人たち は、2人はきっと狸に化かされたのだとうわさしましたが、2人はそんなうわさに耳 をかさず、神様が教えてくれたのだと言って一生懸命に練習に励み、明治の初年、坂 本の芝居舞台で活躍し、他の村へも出かけてその名人ぶりを発揮したということです。
 狸に芝居を教えられた立役は山中辻吉さんであり、女形は下屋敷の美馬佐太郎さん の、若き日のできごとと言われています。
                 『勝浦の民話と伝説』より