世界の歴史 読む年表(1) 概略系統図
先生方の資料を寄せ集め、素人が興味本位で作った年表です
歴史もの読書の参考に供します(リンクで解説が辿れます)
まだまだ基礎学習資料程度ですが、更新を重ねて解説を充実させる積もりです
日本史 東洋史
中国大陸
朝鮮半島
西洋史
250万年前頃 猿人(アウストラピテクス)東アフルカに出現
50万年前頃 原人(北京原人、ジャワ原人等)出現
20万年前頃旧人(ネアンデルタール人等)出現
4万年前新人(クロマニヨン人等)出現
1万年前頃 西アジア各地で農耕始まる
考古学(人類誕生、遺跡、青銅器、墓制など)
日本人の起源と騎馬民族説
@中国・朝鮮経路
A中国・東シナ海経路
Bジャワ・南浦諸島経路
Cモンゴル高原・アムール川・樺太経路

縄文時代
(10000年前)
完新世(温暖期へ)日本列島形成
(三内丸山・板付・菜畑遺跡)
新石器時代(磨製石器・土器・骨角器などを使用)
竪穴住居、屈葬
イノシシ・シカなど中小動物狩猟のため弓矢の発明
狩猟・漁撈・採集生活
黒曜石・ひすい・サヌカイト等を交易
アニミズム信仰
土偶・石棒・抜歯の風習

縄文以前は更新世(氷河時代・岩宿遺跡)、先土器(旧石器)時代(打製石器を使用)
氷河時代(マンモス・ナウマン象・オオツノジカなど大型動物を追って移住・洞穴生活)
古代オリエント文明
前3000年頃 シュメール人都市国家
 →BC24世紀 アッカド王国
 →BC19世紀 アムル人(バビロニア王国)→BC16世紀ヒッタイト人侵入
 →BC7世紀前半 アッシリア帝国(オリエント統一)
 →BC7世紀後半 エジプト・リディア・新バビロニア・メディア   に分裂
 →BC550年頃 アケメネス朝ペルシャ
 →BC4世紀 マケドニア(アレクサンドロス大王)
*メソポタミア地方
 BC3000頃  シュメール人の都市国家(ウル王朝)
 BC2350頃  セム系遊牧民アッカド人が
    シュメール都市国家を征服
 BC1830頃  バビロニア王国
(セム系遊牧民アムル人がアッカド人を征服)   6代ハンムラビ王(ハンムラビ法典)
セム語族、ハム語族は
  ノアの長男、次男に由来
 BC1530頃  ヒッタイト人
  (小アジアの印欧語系遊牧民アーリア人、
  鉄器技術の優れ、バビロニアを征服)
*エジプト
 BC4000年紀 ハム族の都市国家(ノモス)
 BC3000頃  初期王朝による統一→
   古王朝→中王朝→新王朝→後期王朝
*中国
BC5000頃から黄河流域、長江流域で新石器農耕
仰詔文化(彩陶分化) 小集落
龍山分化(黒陶文化)
 大集落・大型墓・大型建築・階層分化
殷(商)(前1600-前1046) 
 邑制国家・亀甲文・青銅器
*インダス文明 BC2300年頃
インダス文明崩壊後 BC1500年頃 
アーリア人が進出(バラモン教・カースト制度)
*地中海文明
 BC3000〜BC1100頃 エーゲ文明
  (クレタ文明・ミケーネ文明・トロヤ文明)
 地中海沿岸(シリア・パレスティナ)
 BC1200頃  
  フェニキア人とアラム人の都市国家
 アブラハムの子孫ヘブライ人がエジプト脱出
  (神との契約でカナンへ)全13世紀
 BC1000頃  パレスティナ(カナン)に
  ヘブライ王国建設、全11世紀末
  (ダヴィデ王・ソロモン王の時代に栄華)     ソロモンの後イスラエルとユダに分裂
  イスラエルはBC8世紀後半に
  アッシリア帝国に滅ぼされる
  ユダはBC6世紀前半に新バビロニアに
  滅ぼされる
  (バビロンの捕囚BC586-BC538)
    新バビロニアがアケメネス朝に滅ぼされてユダヤ人はパレスティナに帰還するが
  以後アケメネス朝、アレクサンドロス帝国、セレウコス朝そしてローマ帝国の支配を受ける
  ユダヤ教の成立
ユダヤ教
 BC13世紀 出エジプト
 →BC11世紀 ヘブライ公国建設
 →BC586〜BC538 バビロン捕囚
 →BC6世紀 ユダヤ教成立
キリスト教
 AD30年頃 キリスト教成立→64年ネロの迫害→303年ディオクレティアヌス帝の迫害
 →313年 キリスト教公認→325年ニケーア公会議→392年 国教化
 →1054年 教会の東西分裂
イスラム教
 610年頃 イスラム教成立

中国:西周(前1046-前771)
 武王が商の紂王(ダッキを溺愛)を倒して
 建国(血縁国家)
 軍師・太公望、
 封建制(一族や異姓の功臣を各地に送り込んで世襲支配)
BC3500頃 櫛目紋土時時代
"結合式釣針”が漁撈面の日朝・日中の交流を伺わせる

BC1000頃 無紋土器時代
中国より青銅器、稲作農耕流入
700
中国:東周と
春秋(前770-前403)の時代
オリエントの世界帝国
 アッシリア 
 BC7世紀前半に全オリエントを統一したが
 BC612年、エジプト(新王国)・リディア・
  メディア・新バビロニア(カルデア)に分裂
   (無為に滅んだアッシリア)
600
中国
覇者 斉の桓侯(宰相・管仲)、晉の文侯、
    及び楚の荘王、越の勾踐、呉の夫差等
    氏族社会の崩壊・下剋上
・領域国家
500 中国・朝鮮より西日本に稲作伝播 アケメネス朝ペルシャが 
 BC525年 分裂後のアッシリア・新バビロニアを滅ぼし全オリエント統一(専制国家)
  属州制、道路・駅逓整備、ゾロアスター教で中央集権確立
 ダイオレス1世のギリシャに遠征は失敗
 BC492-BC449 ペルシャ戦争
(ギリシャ・ポリス連合対アケメネス朝ペルシャ)
(ダリウスは欲に駆られてギリシャ攻め)
ガンジス河流域に反バラモンの仏教・ジャイナ教(クシャトリア階級が支援)
400 BC431-BC404
ペロポネソス戦争
(アテネ側デロス同盟対スパルタ側ペロポネソス同盟)
中国:戦国(前403-前221)時代
晉が韓・魏・趙に分離
秦・楚・燕・斉・韓・魏・趙
鉄器の普及・農業技術の向上で
生産が家族単位に(氏族制解体が農村まで)
手工業・商業・貨幣経済・大都市の進展
兵制では趙の武靈王が胡服騎射の制を採用
覇権は晋(文王)から秦(孝公、宰相・商鞅)へ
合従策と連衡策
諸子百家の活躍(法家・兵家・墨家・縦横家・儒家など)
多数の食客を抱えた戦国四君(斉・孟嘗君、趙・平原君、魏・信陵君、楚・春申君)
各地に銅の精錬所建設
燕より鉄器流入(龍淵洞遺跡・細竹里遺跡)
300 朝鮮より鉄器流入(農耕の発展と国家形成戦争) 古朝鮮(箕子朝鮮)

インド初めての統一王朝 マウリア朝
 前317年〜前180年

 第3代アショカ王は仏教に帰依

前330年 アケメネス朝ペルシャが
ギリシャを統一したマケドニアのアレクサンドロス大王に滅ぼされる
(大王に散々負けてペルシャ滅び)
前4世紀 アレクサンドロス帝国
アレクサンドロスの遠征はオリエントの中にギリシャ文明を浸透させた(ヘレニズム文明)
アレクサンドロス死後、セレウコス朝(ギリシャ系)シリア→アルサケス朝パルティア王国(イラン系、安息国、BC247-AD228)、プトレマイオス朝エジプト、アンティゴノス朝マケドニア、ギリシャ系バクトリア王国などに分かれ、前2世紀以降次第にローマに征服されていった
ヘレニズムは1−5世紀のインド・ガンダーラ美術、5−6世紀の中国南北朝時代北魏様式
6−8世紀日本の飛鳥・白鳳文化に伝播
200
弥生時代(前4世紀-3世紀)
青銅器・鉄器を使用
稲作が本格化(前期は湿田、後期は乾田も)
石包丁・木臼・堅杵など使用
高床倉庫、貯蔵穴
農耕遺跡(登呂・唐古・鍵遺跡)
環濠集落(吉野ヶ里遺跡)
伸展葬
墓制(甕棺墓ー支石墓ー方形周溝墓ー墳丘墓)
第2次渡来系弥生人(モンゴル・中国東北部→朝鮮半島→対馬経由?)が縄文人と混交
北部九州人口の8割以上は渡来系か?
稲作・土器他の技術に日朝の交流が認められる
玄界灘での交流と併せ日本海ルートでは日本製翡翠と朝鮮の鉄や金銅製装身具等が交易された(若狭豪族) 

前3世紀後半  秦・漢の時代←春秋・戦国
中国:秦(前778-前206)
孝公の時に、商鞅を中心に法治主義で中央集権と富国強兵策をとる(商鞅の変法)
BC221年、政(始皇帝)が中国統一
武夫一番の始皇帝)
郡県制をしき中央集権官僚制を完成(丞相・李斯)
蒙恬が万里の長城を完成
郡県制施行、富者を咸陽に強制移住、民間の武器没収、文字・車軌・貨幣・度量衡統一、焚書坑儒などの革新事業で国家統一また天下巡遊、泰山封禅、外征、大土木工事(万里長城、阿房宮、陸墓、兵馬俑坑)など休み無く働いたが→徭役・軍役で人民の疲弊・憤懣が限界に
宦官・趙高の策略で胡亥が二代皇帝に即位するが、放蕩故に国政乱れ暴動勃発(陳勝・呉広の乱)

項羽(西楚覇王・政治力に難)&劉邦(農民出身)
前202年垓下の戦いで劉邦が勝利、漢王朝創始
武を二人競って劉邦勝ちをしめ)

漢の劉邦(高祖)は郡県制を改訂、地方に諸候を配する軍国制を敷く
異姓諸侯王を粛正したが、同姓諸侯王も勝手な振る舞い、中央政府の威令は弱かった

前漢(西漢、前206-8)
BC201年匈奴(トルコ系?)の冒頓單于の侵入に苦杯、融和政策を取る
高祖の死後、外戚・呂氏一族と重臣・陳平が対立
中国での外戚・宦官の権力闘争は清朝まで続く
BC264 第1回ポエニ戦争
(カルタゴに武力で勝利ポエニ戦)
100 福岡吉武高木遺跡 
 前1世紀の王墓(早良国?)朝鮮 半島との交流を示す副葬品

漢書・地理誌では
  倭人百余国に分かれ
  楽浪郡に使いを派遣
中国:BC154 景帝時、呉楚七国の乱
五代・武帝は儒教を官学とし(五経博士の設置)中央集権を図る
積極的軍事攻勢で匈奴に対抗、西域(張騫・衛青・霍去病等の西域遠征)・朝鮮(衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪など4郡設置)・南越等に版図を広げる
一方五経博士を設置、儒教を統治理念として重んじた
軍事支出による財政困難には塩鉄酒の専売、均輸法、平準法、商人の登録制等改革等
武帝死後は、匈奴懐柔策
(王昭君の悲劇)
匈奴の分裂衰退後は鮮卑(トルコ系)が北アジアの覇者となり五胡十六国時代に次々王朝を立てる
古朝鮮(衛氏朝鮮)
  漢から亡命した衛満がBC195建国
漢(武帝)が衛氏朝鮮を滅ぼし楽浪郡(前108-313)他4郡設置
BC37年 扶余族・チュモンが高句麗を建国
高句麗(前37-668)
(韓流ドラマで最高人気を得た”朱蒙”は古朝鮮再興を掲げ中国及びその前進基地に抵抗、高句麗建国を成し遂げたチュモンの伝説的物語である)
紀元前1世紀〜2世紀 ロマ帝国興亡の時代
BC27 ローマ帝国成立
(アウグストウスの武なって帝国成立し)
ローマ帝国とヴィザンツ帝国の興亡
前8世紀頃 都市国家ローマの成立
→BC6世紀末 共和制ローマの誕生
→BC3世紀前半 イタリア半島統一
→BC364〜BC146年 ポエニ戦争
→地中海世界掌握
→BC60〜BC53年 第1回三頭政治
→BC46〜BC44年 カエサル独裁
→BC43〜BC36年 第2回三頭政治
→BC27年 帝政ローマの誕生
→AD395年 ローマ帝国分裂
   東ローマ帝国はビザンツ帝国に
→AD476年 西ローマ帝国滅亡
→AD1453年 ビザンツ帝国滅亡


  
中国 民族の興亡
*インド
1世紀〜3世紀
AD45年 イラン系クシャーナ朝成立
(財政もしごく安定、クシャーナ朝)
西北インドから中央アジアを支配、第3代カニシカ王は仏教を保護、ガンダーラ美術を生み、仏教を中国に伝えた(大乗仏教)
4世紀前半にはグプタ朝が誕生
インド古典文化黄金時代
バラモン教が民間土着信仰・仏教を取り込んでヒンズー教に発展
7世紀前半のヴァルナダ朝を最後に小国が分立、封建制とカースト制度が確立


AD100 吉野ヶ里遺跡
 1世紀(弥奴国?)交易国家とも  推定される豊富な遺跡

後漢書・東夷伝によれば
57年奴国王が後漢・光武帝に使節を派遣(金印受領)
(後漢、奴国に金印!)
107年 帥升朝貢 漢委奴国王 後漢書東夷伝
180年倭国大乱
中国:
貧富拡大、自然災害、政情不安に乗じて
元帝の外戚・王莽が政権奪取、新(8-23)
大土地所有制限、貧農への土地再配分、奴婢売買禁止等革新的政策を打ち出すが富裕層から反発を受け、また対外政策や軍事面で失敗、赤眉・劉秀の2大勢力が反乱

劉秀(光武帝)が赤眉を倒して漢王朝再興
後漢(東漢、25-220)
中央集権体制確立と社会経済復興を目指すが、その死後外戚・宦官の跋扈を許した
特に宦官勢力(濁流)の専横・苛斂誅求は硬骨官僚達(清流)を党錮の禁で弾圧処刑
宦官と外戚(荷進)の戦い
AC184年 黄巾の乱(太平道・張角)に乗じて
(宦官の重税
いやよ
献帝を擁立する董卓、有力者同盟軍の袁紹の戦いを経て群雄割拠時代へ
そして後漢の勢力は衰え、黄巾軍の残党を吸収して献帝を奉じ急速に頭角を現した曹操

漢代には旧来の文化が統合体系化された
AC105年、蔡倫が製紙法改良

 AC132年、張衡が地震計を発明
半島南部は馬韓(後の百済) 弁韓(後の加那)辰韓(後の新羅)に大別される小国が林立
高句麗の北(遼東)には公孫氏、東には沃沮が勢力をはる
チュモンの第三子・温祚が南下、馬関の地に百済を開いたと言われる
(実際に百済と称されるようになったのは四世紀・近肖古王の時代か?)
同様に開国神話に彩られるのは辰国の地に国を開いた新羅である
66年 ローマ属国のユダヤ人第1次反乱
74年 ユダヤ人はマサダ砦の戦いに敗れる
200 3世紀 倭国大乱→卑弥呼
           →臺与

奈良黒塚古墳 
 3世紀の三角縁神獣鏡
 (大和朝廷が中国と国交)

魏志・倭人伝によれば
邪馬台国(約30国連合体)の
 女王・卑弥呼 鬼道をおこなう
 (呪術政治)
238年邪馬台国卑弥呼が魏に使節派遣
(ふみこじゃないよ、ひみこだよ)
狗奴国などの反乱に援軍を求めて朝貢したが、軍旗と親魏倭王の称号の下賜に終わった
266年 壹与が晋に使い
3世紀  三国時代→五胡16国→南北朝時代
魏蜀呉(三国時代)(220-280)
208年 赤壁の戦いで曹操は劉備・孫權連合に敗れ三国分立

220年 曹丕が献帝から禅譲を受け即位(文帝)魏王朝創立(連れて劉備(蜀)孫權(呉)も建国)
263年 蜀は魏に滅ばされる
魏は屯田制と九品官人法で優位
265年 魏の司馬炎(武帝)が魏の末帝から禅譲を受け西晋を建国(256-316)、呉を下し中国統一
屯田を廃し戸調式新しい税制土地制度を採用
291年 二代皇帝の外戚・賈氏一族の陰謀が八王の乱につながり、諸王が異民族の傭兵に頼った結果、それに乗じた異民族(匈奴・ケツ・鮮卑・テイ・キョウ)の侵入を許す事になった
→五胡十六国時代へ
西アジア・イランでは
226年 アルサケス朝がササン朝・アルダシール1世に滅ぼされる
(苦労がにじむササン朝)
ローマ・ビザンツ・クシャナ朝などと対決しながら西アジア一の大帝国としての地位を多少の挫折を伴いながら4世紀に渡って保持
ゾロアスター教を国教化
王朝交替説
古代王朝系図
300 空白の4世紀

空白の4世紀に日朝、日中の関係性はより深まった

4世紀 奈良県を中心にヤマト政権成立(氏姓制度)

372年 百済から七支刀を贈られる
百済が倭国に送った石上神宮・七支刀は百済(近肖古王)と倭国との関係も伺わせる

391-404年 百済と共に高句麗と戦う(日本は敗退)
(さあ来い、倭国!)

広開土王碑
広開土王は4世紀末から5世紀初めの頃の高句麗王
@391年 新羅・百済は高句麗に朝貢していたが、倭が海を渡り侵攻、臣民とした
A399年 百済が倭に通じ、新羅が高句麗に救援を求める
B400年 高句麗軍は新羅の王都に満ちていた倭軍を攻め、倭は任那・加羅に退く
C404年 倭を帯方地方で大敗せしめる
在日朝鮮人の歴史学者李進熙や、北朝鮮の学者が、大日本帝国陸軍による改竄・捏造説を唱えた
@項の主語を倭ではなく、高句麗とする事で、倭が新羅・百済を支配した事を否定

神功皇后の三韓征伐神話
日本書紀の応神天皇の母(日本武尊の子である仲哀天皇の后)、神功皇后が新羅他百済・高句麗に出兵したと云う記述による
秀吉の朝鮮出兵、明治維新後の韓国併合等を正当化する為に利用されたが、斉明天皇新羅遠征での戦意高揚の為創作された神話的誇張とされている
但し4世紀後期ごろから、大和政権が朝鮮半島南部に進出(369年、371年高句麗=新羅連合対百済戦争=倭・伽耶連合?)していた事は広開土王碑からもほぼ事実と云われる
304年永嘉の乱、匈奴の首長劉淵が、羯(けつ)族や漢人の流民を糾合して洛陽を陥れ、西晋)を滅ぼし漢を建国
以後、華北は遊牧民族の支配下に入り、五胡十六国時代が始まる。(漢の建国304年〜北魏の華北統一439年)
五胡一六国時代には儒教に対抗して仏教が隆盛、道教も整備された

高句麗・美川王は国力を充実、楽浪・帯方二軍を制圧して(314年)、中国による半島の郡県支配を終息せしめる
百済にも迫ろうとするも、鮮卑族(燕)の侵略を受け、前秦に接近する
高句麗(都は国内城→平壌)・タムドクは広開土王として国土を拡張した神話的英雄(韓流ドラマ大王四記、広開土王に描かれる)遼東の契丹・半島の百済を攻略
広開土王の後を継いだ長寿王も中国の南北対立状況をたくみに利用

372年仏教伝来をうける
346王位を継いだ百済・近肖古王は伽耶諸国や日本と友好関係を結び、高句麗・故国原王と対抗、戦死させる
384年 百済に仏教伝来
330年 コンスタンティヌス帝がビザンティンに遷都
313年 ミラノ勅令でキリスト教公認
(耶蘇教信仰さあいいさ
375年 ゲルマン民族大移動開始
(ドナウ越え皆ゴート族大移動)
395年 ローマ帝国分裂
ざっくり壊れたローマ帝国)
4〜5世紀 ゲルマン民族大移動の時代

ゲルマン民族大移動で西ローマ帝国滅亡
→フランク王国建設へ
古墳時代(3世紀-7世紀) 
 3世紀後半〜4世紀
  畿内中心に前方後円墳
  (竪穴式石室・粘土槨・副葬品   は宗教的権威を象徴するもの)
  箸塚古墳・纒向石塚古墳
   (奈良県)
 4世紀〜5世紀
  九州南部〜東北地方へ
  (副葬品は武具や馬具)
  大仙陵(仁徳天皇陵・
  百舌鳥古墳群)・
  誉田御廟山(応神天皇陵・
  古市古墳群)
 6世紀〜7世紀
  全国各地に群集墓・横穴墓
  (横穴式石室・装飾古墳・
  家族墓として土師器・須恵器な  どの日用土器を副葬)
  岩橋千塚(和歌山)
  吉見百穴(埼玉)
朝鮮半島から多くは加那国など騎馬民族の流れをひく移住技術者集団が先端技術を持ち込んだ
結果大和朝廷支配層の約3分の1が移住民で占められたと言われる
  秦氏、東漢氏(ヤマトノアヤ)、
  今来野漢人(イマキノアヤ)  
  東漢氏の支族・西漢氏
   (カワチノアヤ)
  
中原を追われた漢の難民が江南に東晋(317-420)を建てる
376年 華北はチベット系・テイが統一(前秦)
383年 東晉はヒスイの戦いでテイを退け、前秦は後涼・西秦・後秦・北魏・西燕・後燕などに分裂




400 五世紀 倭の五王の時代

宋書・倭国伝によれば
倭の五王 珍 讃 済(允恭) 興(安康) 武(雄略) 
  中国・南朝と交流(朝貢)

421年 倭王讃が宋に使節派遣
478年 倭王武(雄略天皇)が安東大将軍倭王の称号を受ける
(余の名は武王)
朝貢の目的は百済を取り込み高句麗牽制にあった

使持節都督 倭 百済 任那 加羅 秦韓 慕韓 七国諸軍事 安東大将軍 倭国王
(大層な官位だが、高句麗に与えられた征東将軍、百済に与えられた鎮東将軍より下位であったとも言われる)
江田船山古墳(熊本)の大刀銘
稲荷山古墳(埼玉)の鉄刀銘

雄略は応神系王統の代表選手、記紀では雄略天皇が王位に就くときの血なまぐさい争いを記している(市辺押磐皇子・葛城円を殺害、葛城氏を没落せしめた)
葛城氏のあと同族の平群氏・巨勢氏・蘇我氏が台頭

日本武尊神話
記紀では日本武尊は景行天皇の子(仲哀の父)とされるが、その伝承神話は地方巡幸に活躍した雄略天皇の事跡をもとに作られたと思われる
南北朝時代(439-689)

420年江南(建康)では東晋から禅譲を受けた宋と  斉 梁 陳の短命政権が続く

439年華北では北魏(鮮卑族)が華北を統一535年に東魏と西魏に分裂、ほどなくしてそれぞれ 北周 北斉に取って代わられる
北魏の太武帝は仏教を大弾圧
孝文帝は漢化政策を徹底、俸禄制・均田制・三長制を採用(平城→洛陽)

552年 北アジアではトルコ系遊牧民・突厥がモンゴル系柔然を破って勢力を拡大、北朝に圧力をかける(ソグド文字を持つ)
高句麗は 424年に宋、435年に北魏に朝貢、柵封を受ける
勢力を強めた高句麗は新羅と連合して日本・伽耶・百済に勝利(475年 百済・漢城陥落、熊津に遷都)

伽耶(加羅・伽耶)
弁韓を母体とする小国連合、日本書紀ではこれを任那とし、倭に従属した政治的統合体で、倭の出先機関(任那日本府)の存立を記述している。しかし考古学的発見から日本が朝鮮半島・仁那を支配していたとする説は否定された
現在では、伽耶地域にヤマト朝廷から派遣された倭人の軍人・官吏、或いはヤマト朝廷に臣従した在地豪族、または倭人系百済官僚などが当地で軍事的・経済的影響力を有していたことが有力視されている
倭国は加那に鉄を求める代わりに労働力を提供、軍事力提供に発展したか?いずれにしろ深い交流があった(韓流ドラマ鉄の王・キムスレ)
562年新羅に併合

任那(369-562)=伽耶地域諸国のうち有力国・金官伽耶国
神功伝説等日本書紀では任那日本府は倭王権の出先機関であったように記されている
しかし現在伽耶が鉄の生産を基盤に勢力を展開した独立国家群であったと理解されている
倭国は伽耶に鉄を求める代わりに労働力を提供、軍事力提供に発展したか?
いずれにしろ密接な関係があった
(交流は一方通行ではなく、互いに利を求め合った相互通行)
任那日本府の諸説
 倭王権出先機関説
 分国説(三韓三国の日本列島内分国、
   任那日本府はそれら諸分国を統治)
 加那地域居住の倭人説
 加那諸国による設置説
 百済の出先機関説
 使者・外交交渉団体説
 新分国論

百済(346-660)

新羅(356-935)

倭国はむしろ伽耶より百済との関係が強かった?
伽耶も倭国より百済と密接に関係していた?
朝鮮諸国を領有したかに見える”倭の五王”の称号も軍事権の委任だけを示しただけか虚号であった
しかし時に百済は伽耶にも侵攻しており、5世紀では高句麗に対抗する新羅・百済の同盟もあり、倭と百済の関係は余り良好ではなかった
倭の百済関係一辺倒になるのは、伽耶をめぐる百済と新羅の紛争後6世紀
476年 西ローマ帝国滅亡
 (死なんとする西ローマ)
481年 フランク王国成立
余は始めんフランク王国メロヴィング朝)

500 六世紀初期 大伴氏が権力
六世紀中期 物部氏対蘇我氏
六世紀後期 蘇我氏が政権を独占

武烈(架空かも知れない)没後大伴金村越前から継体天皇を招来(応神5代の抹消、雄略が滅ぼした葛城系の市辺押磐の子・仁賢天皇の子・手白香皇女を妻とする)
継体の出自は越前、朝鮮半島との繋がりが深いと思われる
百済より五経博士を招く
512年 任那四県を百済に割譲
(百済と新羅による加那侵略が本格化、大伴金村が賄賂を受けて任那四県を百済に割譲、
一方蘇我稲目は継体の子・広庭皇子(後の欽明)に2人の娘(堅塩媛・小姉君を妻に献じた
継体の後、尾張系の子、安閑・宣化を中継ぎとして、蘇我稲目・物部尾輿が擁立する欽明が皇位を継ぎ、磐井の乱を経て大伴金村が失脚する

527年 筑紫国造・磐井の乱
(いつもなや(悩)ます磐井の反抗)
継体天皇は伽耶復興を目指し、朝鮮出兵を企てるが新羅に籠絡された北部九州の勢力・磐井によって妨害される
北九州・遠賀の王冢古墳は磐井が騎馬文化を取り入れていた事を伺わせる
任那割譲・磐井の乱で、大伴金村が失脚(磐井を鎮圧した物部麁鹿火が台頭)

朝鮮から得た鉄がヤマト王権確立に寄与した
併せ 
552(538)年 百済から仏教伝来
欽明期 百済26代・聖明王が仏像・仏典などを贈る
  (ごさんぱい!(ご参拝!))
  (上宮聖徳法王帝説、
  元興寺縁起)
  (長野善光寺の秘仏)
崇仏論争で物部氏(麁鹿火、尾輿、守屋)対蘇我氏(稲目、馬子、蝦夷、入鹿)の対立が始まる
馬子と守屋の争いは
王位争いに展開(崇仏派葛城系蘇我馬子=堅塩媛系用明天皇対
排仏派反葛城系物部守屋=小姉君系穴穂部皇子)
当初崇仏論争は現世利益を求めるものであったが、やがて大和政権は仏教を国家形成のイデオロギー的支柱として利用(護国仏教)
更に文字・寺院建築・美術等文化の発展に貢献
隋唐帝国の膨張が緊張が朝鮮半島、倭国の緊張を高め統一国家の建設を急がせた、支配層は競って巨大寺院を建設、仏教思想を国家統一のイデオロギー的基盤とした

*蘇我氏 
  三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)の
   管理者
  渡来系(秦氏・東漢氏・
   西文氏)を取り込み
  宣化の外戚尾張氏にも親しく
   外戚として欽明の信任
  渡来人説、葛城系説
587年 蘇我馬子物部守屋を 滅ぼす(いやな争い)
588年 法興寺建立開始(百済・王興寺伽藍配置に類似)
592年 蘇我馬子が崇峻天皇暗殺(推古擁立)
崇峻は欽明と小姉君の子、敏達・用明・推古(用明の妻・炊屋姫)の異母弟
皇位継承を条件に兄・穴穂部を裏切り蘇我馬子につくが、馬子に裏切られ東漢駒に暗殺される(漢駒は後に馬子に殺される)
593年 推古天皇女帝となり、聖徳太子摂政に

*聖徳太子
当初は大王、馬子、太子の3頭政治であったが、次第に太子の実力が認められてきた
太子の政策
仏教興隆:法興寺・法隆寺など建立・仏典研究
外交:聖徳太子の時代になると交流は百済に限らず、高句麗など朝鮮諸国・中国・隋まで広がる(隋の属国になっていた百済・新羅などより優位である事を認めさせようとした)
礼・法の秩序整備:冠位12階、17条憲法
581年 隋(581-619)北周(鮮卑系)の外戚武将・楊堅(文帝)が北周から王位を奪い南朝(陳)も滅ぼして中国統一
州県制・均田制・租庸調制・府兵制・科挙制度導入、内政を重視して中央集権強化
煬帝は604年に即位、外征や大運河等土木工事で国威発揚、
高句麗遠征は失敗、相次ぐ外征・土木工事への動員で人民の疲弊不満が高まる

531年 高句麗は内乱で国土を消耗したが、陽原王は急成長する新羅からの防衛のため城塞都市・長安城を建設して遷都、589年隋に朝貢
平原王は靺鞨・契丹を攻撃、隋との破綻が見え始める

新羅が伽耶諸国を滅ぼす、日本府滅ぶ(562年)
(新羅のコロニー(植民地))
任那復興会議(百済対新羅)に日本から使節派遣
古代国家はまだそれぞれの地域を制覇していなかったから、地方レベルの多元的な交流があった
(日本独自とされた前方後円墳が朝鮮辺境でも見つかった謎)

高句麗・新羅に攻められ孤立化・弱体化した百済は倭国に軍事的・政治的援助を期待(仏教輸出はその見返り)
百済の巨大寺院・王興寺(弥勒寺)は
   弥勒信仰、舎利信仰
   中国南朝(梁)や北朝・西域等の
   影響を受けるたもの

570年頃 マホメット生誕
610年頃 最初の啓示を受ける

七世紀前半 聖徳太子摂政→大化改新
七世紀 後半 
  大化改新→壬申の乱
        →大宝律令制定
中国・朝鮮半島併せグローバルな動乱の時代
603 冠位十二階制定
推古天皇  豊浦宮→小墾田宮
604 一七条憲法制定
  (群れよ人々、憲法発布!)
607 遣隋使
  (ぶれいな!(無礼な!) 煬帝(ようだい)怒る!)

新羅を抑えたい日本は高句麗を攻めたい隋に
小野妹子を煬帝に派遣、煬帝は裴世清を宣諭使として日本に派遣
高向玄理・僧旻・南淵請安
609 飛鳥寺(法興寺9は百済・王興寺をモデルに建築された(蘇我馬子+推古天皇)
朝鮮半島渡来人が蘇我氏の絶大な権力を支えた
飛鳥の都も百済・扶余の都城に倣った
百済の影響を最も受けた飛鳥文化(6世紀-8世紀) 法隆寺
法隆寺怨霊寺説(梅原猛)
612 隋の煬帝、高句麗遠征に失敗
614
遠征失敗は内乱を招き、煬帝は李淵・李世民に倒される
618
唐王朝成立
無比は中国唐王朝)
唐(618-907)
太宗(李世民)は兄を謀殺、李淵を幽閉して626年に即位(貞観の治)
隋から受け継いだ中央集権・律令制を完成
均田制・租庸調制・府兵制
三省六部の管制、州県政、貢挙(科挙)
突厥・ウイグルなどを制圧、都護符を設置
柵封政策、朝貢貿易

胡姫が舞い胡商が行き交う国際都市・長安
622 マホメット ヒジュラ(メッカ→メディナ)
浪人になるムハンマド)
629 舒明天皇即位
推古没後山背大兄(聖徳太子の子)=用明系王族と舒明(推古の子・田村皇子、蘇我蝦夷が擁立)=敏達系王族の皇位争い
630 舒明天皇、第1回遣唐使派遣(〜894年)
  (むつみ(睦)を結ぶ遣唐使)

*遣唐使
1回目犬上御田鍬→2道昭(法相宗伝来・行基の師)→3高向玄理→→
8山上憶良→9藤原宇合・阿倍仲麻呂・吉備真備・玄ム→12藤原清河・吉備真備(鑑真招来)→18空海・最澄・橘逸勢→19円仁(入唐求法巡礼行記)
仲麻呂らは玄宗・李白・王維らと親交


唐と倭国を取り結んだのは新羅だった
しかし
唐との関係をめぐって(どちらが上席か)新羅との関係は悪化、渤海との交易がすすむ
舒明天皇は唐の長安を真似た難波宮、巨大寺院・百済大寺を建設
マホメットがメッカを無血開城、アラビア半島を統一
632年 マホメット没してウンマ(イスラーム共同体)存亡の危機→正統カリフ時代(632〜61年)
大征服活動・ジハード
(剣かクーランか、はた又金=人頭税か)
632年新羅・善徳女王即位
 唐に対する自立派と依存派の拮抗

アラブ帝国
610〜632年 ムハンマドの時代
→632〜661年 正統カリフ時代
661〜750年 ウマイア朝
→750〜1258年 アッバース朝
→ブワイフ朝、ファーティマ朝、アイユーブ朝
  マムルーク朝(トルコ系奴隷王朝)など
→11世紀 セルジューク=トルコ朝
  (ビザンツを攻め十字軍を呼び起こす)
→オスマン=トルコ朝(1299〜1922年)
 (1453年ビザンツ帝国を崩壊せしめ
 強大な権力を持つスルタン制のもと
 バルカン半島からハンガリー、地中海の  制海権を握っていく

イスラム世界 7〜15世紀
(「都市文明イスラーム 新書イスラームの世界1」(講談社 1993)より)
 

641 641年百済が仇敵・高句麗と和解
642 舒明没して皇后・皇極(宝皇女)が即位(蘇我入鹿が擁立) 642年高句麗ヨンゲソムンが栄留王を殺害、宝蔵王を擁立(ヨンゲソムンの専制、百済と結び新羅・高句麗に対抗)
ササン朝滅亡
無用になったササン朝)
643 蘇我入鹿が反蘇我(血統的には蘇我系)の山背大兄滅ぼす
645 中大兄皇子(舒明・皇極の子)=中臣鎌足、乙巳の変(大化改新)
  (むし米で祝う大化の改新)
隋・唐に留学した僧旻・高向玄理などは国博士として大化改新の原動力となる
蘇我氏(入鹿・蝦夷)滅亡、天皇家と蘇我氏二頭体制を覆す
難波に遷都
皇位は皇極天皇から弟・孝徳天皇(中大兄の叔父)へ
中大兄は異母兄・古人大兄(母は蘇我馬子の子・法提郎媛)を暗殺

乙巳の変、中大兄・鎌足(反百済)が百済寄りの蘇我氏を倒す
(百済に任那の調を求める)
白鳳文化(645-710)
唐の太宗、高句麗遠征に失敗

国際情勢
百済が新羅に侵攻、新羅は高句麗に侵攻していた唐の太宗に援助を求める(百済・高句麗連合対新羅・唐連合)
646 改新の詔
(公地公民・中央集権体制、班田収授法、戸籍計帳、新租税制度、冠位19階制)
647 東北 淳足柵、磐舟柵(648年)
649 右大臣・蘇我倉山田石川麻呂殺害
653 中大兄、間人皇后(皇極の子・孝徳の妻・中大兄と近親相姦?)、皇極等が孝徳天皇を置き去りにして飛鳥へ
中大兄は唐・新羅重視の孝徳天皇(遣唐使再開)に反旗
(新羅のように唐の属国になる事を心配した?)
655 孝徳帝失意の内に崩御、斉明天皇重祚
中大兄・蘇我赤兄の陥穽にはまり、有間皇子(孝徳の一子)絞殺される
658 阿倍比羅夫の東征
660 斉明天皇と中大兄は百済復興を支援、百済王子豊璋を擁立(織冠位授与)して派兵
高句麗・百済連合に押された新羅
654年即位した新羅の武烈王が唐と結んで百済を滅ぼす(百済滅亡)

新羅の皇子・金春秋(後の武烈王)は唐と結び倭国とも接近、新羅による朝鮮半島統一の基礎をつくる(ドラマ:”善徳女王”は金春秋の叔母、”淵蓋蘇文”は高句麗の武将)
ヨンゲソムンと新羅の武将キムユシンの戦い(金春秋の妻はキムユシンの妹)
661 斉明天皇、百済救援軍拠点・九州朝倉宮で病死したが、中大兄は即位せず(称制) ウマイア朝創設(661〜750年)
首都をバクダードに
663 白村江の戦い、百済残党・日本が唐・新羅に大敗
  (む!む!みごとな惨敗)

天智天皇は国家防衛・律令体制、中央集権を急ぎ百済亡命人を通して唐の技術を取り入れ(亡命百済人が指導)、唐の脅威の前に新羅に接近する
大宰府、水城、烽火、防人、朝鮮式山城
667 近江大津京遷都 近江令 庚午年籍
668 中大兄即位(天智天皇
近江令(鎌足編纂)
  (むろんやくにたつ(無論役に立つ)近江令!)
唐=新羅によって高句麗滅亡(ヨンゲソムンの遺児・ナムセンの裏切り)
669 鎌足没(大織冠・内大臣・藤原姓下賜)
669(天智)〜702年(大宝)遣唐使中断
670 庚午年籍(最初の全国的戸籍)
672 壬申の乱、大海女(天武)対大友皇子(天智の子・弘文天皇)
(ぶなんに(無難に)のりきる大海人皇子)

天武天皇が壬申の乱で王権を奪取?、天智の律令制度・中央集権体制を引き継ぎ、天皇を中心とした古代国家”日本”の誕生
673 天武天皇即位(皇親政治)

巨勢、蘇我、中臣等近江朝を支えた有力豪族没落、舎人ランクを登用
部曲全廃
身分制再構築(八色の姓、位階48階)
国司編纂
律令編纂 律令制度
兵制整備(中央集権化)へ
唐と新羅が日本への接近を競う
7世紀初頭から9世紀中頃に掛けチベットに吐蕃王国(チベット系)、唐や突厥・ウイグルと争う
675 唐への従属を嫌った新羅が反撃、勝利
676 新羅が唐を駆逐、朝鮮半島を統一(中国は半島を放棄)
684 八色の姓(皇族中心の身分制度)制定
(真人・朝臣・宿禰・忌寸(イミキ)・導師・臣・連・稲置(イナギ)
686 天武没して持統(天武の妻、天智の娘)称制、持統は我が子・草壁の地位を盤石にするため、大津皇子(天武と大田皇女の子)を謀叛を名目として処刑(大田皇女は持統の姉)
689 飛鳥浄御原令実施
690 庚寅年籍(6年に1度)
草壁病死して持統天皇即位
(天武直系・我が孫・軽皇子による皇位継承に拘る)
則天武后が国号を周に変更
(武韋の禍)
694 藤原京遷都(最初の本格的都城)
697 文武天皇(軽皇子、草壁皇子の子)即位、藤原不比等、娘宮子を嫁がせ聖武を生ませる(外戚政策)
698 高句麗の武将の子・テジョヨンが靺鞨・高句麗遺民を結集して渤海国を建設(ドラマ:大祚榮)(713年に震国を渤海国に改名)
新羅・唐・日本等周辺諸国とは懐柔策を取り、海洋貿易で発展
八世紀  藤原氏対
       アンチ藤原の 権力闘争
 前期 元明・元正・聖武
 中期 孝謙・淳仁・称徳
 後期 光仁・桓武
     →平安時代へ
8世紀〜9世紀  アッバース朝と唐の時代
8世紀〜9世紀 フランク王国全盛時代
(西欧世界の原型形成期)
フランク王国(西欧世界の形成)
701 大宝律令(文武)制定
 刑部親王・藤原不比等が作成
(なをひろめた(名を広めた)大宝律令)
天皇→太政官→八省→国司・郡司・里長への上意下達の中央集権体制
(氏姓社会、部民制社会の終焉、律令体制整備)
707 元明天皇(文武の母・聖武の祖母)即位
元明・元正=藤原不比等政権
708 武蔵国から銅が献上され和同開珎(統一貨幣)が作られる
奈良時代(710-794)
*東北(出羽国712・多賀城724)・九州南部(大隅国713)に国域拡大
*鉱山開発・和同開珎(708)・蓄銭叙位令(711)・市場駅制発展
*古事記編纂(712)
710 平城京遷都(中国・長安の都城制をまねる)
(南都は平城京)
711 蓄銭叙位令
712 上羽柵設置
古事記完成
玄宗即位(開元の治)
玄宗治世は前半名君(開元の治)
後半は楊貴妃に耽溺、宴遊に溺れた
715 元正天皇即位(文武の姉、聖武の叔母)
718 養老律令(元正)藤原不比等が編纂
不比等没してアンチ・藤原の長屋王(高市皇子の子)台頭
720 日本書紀完成
722 百万町歩開墾計画
723 重税にあえぐ農民の窮乏  浮浪・逃亡・偽籍対策として土地開発を奨励
三世一身の法
(なに!三世だと!)
724 聖武天皇即位(不比等の娘・宮子の子)
聖武=橘諸兄政権
多賀城設置
729 長屋王、藤原四子に誣告され葬られる(長屋王の変
(なにくそ、まけるな長屋王)
*藤原四子
武智麻呂(南家)房前(北家)宇合(式家)麻呂(京家)
藤原四子が光明子(藤原不比等と県犬養三千代の娘)を立后
737 藤原四子、疫病で没、橘諸兄台頭
(不比等の妻・三千代の連れ子)
740 藤原広嗣の乱(式家・藤原宇合の子、大宰府で反乱、聖武の側近・橘諸兄・玄ぼう・吉備真備に抵抗して敗れる)
(「なんじを除け!」と広嗣反乱)
衝撃を受けた聖武天皇は諸都を転々としたのち平城京に帰る
恭仁京・難波宮・柴香楽宮に遷都
741 国分寺建立の詔
743 墾田永年私財法(土地私有容認)
(三世はなしさ!永年さ!)
土地公有制の崩壊へ、半世紀にわたって口分田の班給が滞る
高級貴族や寺院は初期荘園獲得(但し輸租田・納税義務あり)
大仏造立の詔(鎮護国家思想)
(なじみの大仏さん)
744
トルコ系遊牧民・ウイグルが突厥を滅亡させ中央アジアに覇権(安史の乱後は唐に対しても優位に)〜840年甘州ウイグル・カラハーン朝・天山ウイグル等に分散
749 孝謙天皇(聖武・光明皇后の娘)即位
光明皇太后=藤原仲麻呂政権
孝謙→淳仁→称徳(重祚)
750 アッバース朝創設(750〜1258年)
(アッバース朝 難航丸めて国始め)
シーア派(アリー党)としてウマイア朝を打倒したが後にシーア派を弾圧
但しアラブと非アラブの差別解消に貢献
753 鑑真来日(後に東大寺戒壇院、唐招提寺を築く)
755
楊貴妃の縁に繋がる楊国忠が政治を専横
重税にあえぐ農民の逃亡、地方軍団の長・節度使の割拠
安祿山の乱(安史の乱)
(楊貴妃に非難ごうごう)
  国力衰微
757 橘諸兄に代わって光明皇太后の寵を得たのは藤原仲麻呂(南家・武智麻呂の子)だった、諸兄の子・橘奈良麻呂が変を興すが鎮圧される
(ひごうな(非業な)最後の奈良麻呂)
758 淳仁天皇(孝謙の子)即位
764 藤原仲麻呂(恵美押勝)の変
(なきむし?(泣き虫?)仲麻呂)
道鏡に溺れ淳仁天皇を抑制しようとする孝謙皇太后を諫めるため蜂起した藤原仲麻呂(恵美押勝)は孝謙・吉備真備に屈す、淳仁廃帝、称徳天皇重祚
称徳=道鏡政権
769 宇佐八幡宮神託事件
770 道鏡追放
光仁天皇(天智の孫、桓武の父)即位、藤原永手(北家)・藤原百川(式家)らが擁立
772 開墾制限撤廃(大荘園主・藤原氏の専横へ)
781 桓武天皇即位(律令地方政治の再建を目指す)
令外官(勘解由使・征夷大将軍)制定
桓武のライバルには光仁と聖武の娘・井上内親王との子・他戸親王、桓武の弟・早良親王がいた、二人謀殺の罪に苦しむ
律令制度崩壊への対策
宰相・楊炎の建議で均田制・租庸調制に代わり両税法(農民に土地所有権・金納)
国家による塩・茶の専売
解決に至らず、宦官と闇商人が専横
784 長岡京遷都
785 早良親王、藤原種継(長岡遷都の責任者)暗殺の罪を着せられ憤死
(桓武が我が子・安殿親王=平城天皇への譲位を安泰にするために図った謀略)
792 健児の制(農民による軍団・兵士を廃して郡司の子弟が国衙を警備)
類聚三代格
794 平安京遷都(和気清麻呂の建議)
(鳴くようぐいす平安京)
平安時代(794-1185)
797 坂上田村麻呂東征
802年 胆沢城 803年 志波城建設
九世紀 藤原北家の台頭と
      他氏排斥
  前期   藤原冬嗣(蔵人頭)
  中期   藤原良房(摂政)
  後期   藤原基経(関白)
800 カンボジャ:クメール王国アンコール朝
(802年〜13世紀)
カールの戴冠
晴れて王位カールの戴冠)
805 徳政相論

桓武は藤原緒嗣の意見で蝦夷征討事業、平安京造営事業を停止
雑徭半減(60→30日)、出挙利率引き下げ(5→3割)、班田(6〜12年)等、勘解由使(国司交代監督官)設置、792年軍団廃止して健児の制
800年代前半、賎民出身の張保皐(チャンボゴ)が今の莞島に清海鎮を設置、海賊を掃蕩した後、南海と黄海の海上交通を支配し、唐、日本との貿易を独占したばかりか、大きな政治勢力にまで成長、海上王と讃えられた
ドラマ海神(ヘシン)ではチャンボゴ役のチェ・スジョンと海賊の子ソン・イルグクの韓流2大スターが競演する
806 平城天皇即位
藤原薬子(式家・種継の娘)を寵愛
809 嵯峨天皇即位
 (中央政治の強化へ)
蔵人所、検非違使設置、弘仁格式(格は法の補足修正、式は法の施行細則)、養老令の注釈書(令義解・令集解)編纂
地方の役所は直営田を経営して税収不足を補う
  公営田 大宰府の運営費用
  官田   官吏の給与等
  勅旨田  天皇家の財政に
  諸司田  役所の運営費に
文室綿麻呂が蝦夷を制圧
810 薬子の変(藤原式家の没落)
(ハッ!とする薬子の変)
平城重祚を狙った藤原式家の薬子・仲成兄妹を嵯峨天皇は北家の蔵人頭・冬嗣を使って阻止
(式家の没落、藤原宗家は北家へ→摂関家藤原氏) 
冬嗣は弘仁格式を編纂
842 承和の変(藤原北家全盛へ)
(やしんに(野心に)負けた!)
*藤原北家の台頭、キングメーカー良房(冬嗣の子・摂政)・基経(良房の養子・関白)
良房 承和の変(842年)で皇太子を廃し、伴健岑・橘逸勢を倒し妹の子・文徳天皇を立てる、応天門の変(866年)を利用して政敵・伴善男らを倒し幼帝・清和天皇(良房の娘の子)の摂政となる
良房は貞観格式を編纂
基経(良房の甥・養子) 清和の子・陽成を廃し、老帝光孝(文徳の弟)、其の子宇多天皇の関白となる
862 ノブゴロイド公国成立→882年キエフ公国
(スラブ人と混血したノルマン人が建国、ロシアの起源となる)
(ルス族は無二の仲間で国を建て)
866 応天門の変
(善男はむろん排斥だ!)
870 メルセン条約(フランク王国分裂)
離ればなれの独仏伊)
875
塩の密売人・黄巣の乱
(やな子暴れる)
888 阿衡事件
基経の宇多天皇への反抗
基経死後、宇多天皇は摂政・関白を置かず親政(887-897・寛平の治)菅原道真(蔵人頭→右大臣)を登用
滝口の武士を置く
894 遣唐使中止(菅原道真建議、宇多天皇)
(白紙になった遣唐使)
897 醍醐天皇親政(897-930・延喜の治
左大臣 藤原時平(基経の子)→忠平
右大臣 菅原道真
10世紀
 前期 延喜(後醍醐親政)・
     天暦(村上親政)の治
     一方に承平・天慶の乱
 後期 藤原氏全盛(道長)
   一方に安和の乱などで
   武士の登場
900 新羅王室の内部抗争、治政の乱れ、反乱、軍部割拠
新羅の武将・キョノン後百済建国
901 時平(左大臣)道真を排斥・大宰府に左遷(昌泰の変)
(こわいぞ、道真の怨霊)
最後の六国史(日本書紀、続日本紀、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録)及び
最後の格式、延喜格式編纂
僧侶・クンイエ後高句麗建国
902 延喜の荘園整理令
(ここは不都合、縁起が悪い)
最後の班田命令、最初の荘園整理令(公営田、官田の直営田を制限)(史料:類聚三代格)
中国・朝鮮半島・日本、東アジアは動乱の時代へ(律令体制の崩壊)

土地・税制などの変化
907
唐の滅亡(黄巣の乱の混乱に乗じた朱全忠が帝位を奪い後梁を建国)
(人々よないてくれなと唐滅び)

その頃耶律阿保機がモンゴル統一

五代十国(907−960)の動乱時代
華北五代 後梁→後唐→後晉→後漢→後周
華南十国
北宋(960-1127)
遼(916-1125) 
西夏(1038-1227)
南宋(1127-1279)
金(1115-1234)
唐が滅ぶと、渤海支配層内で分裂紛争
916
916年 契丹建国(耶律阿保機)
遼(916-1125)
契丹は中国文化を受け入れながら固有文化の保持に努め、政治・社会・文化すべてに二元体制を取った
その武力を背景として中央アジアからイランにまで勢力をはる

918 クンイエの独裁恐怖政治を破って
王建(ワンゴン)が高麗建国(918-1392)
ドラマ:”王建”(ワンゴン)
キョンフォン後百済(900-936)
クンイェ後高句麗(898-918)
926 渤海が契丹によって滅亡さる
927 延喜式(最後の法典編集)
935 朱雀天皇 時平の弟・忠平の摂関政治

承平(平将門)の乱
将門、下総(猿島)・新皇を称す
(多数組み込み、反乱だ!)

平貞盛・藤原秀郷が平定
天慶の乱鎮圧とあいまって、源平など武士の存在が治安維持上必要と見なされるようになった

源平の棟梁
源氏  
源経基ー満仲ー頼信ー頼義ー 義家ー義親ー為義ー義朝ー頼朝
平家  貞盛・・・正盛ー忠盛ー 清盛ー重盛
平家 系図
源氏 系図
藤原家 系図
新羅が高麗に無血降伏
936
後晋「が契丹に燕雲十六州を割譲
高麗・王建が朝鮮半島再統一
科挙制で中央集権的官僚国家を築く
更に世襲化された官僚層・両班が形成
946
947
契丹が国号を遼と改める
949 天慶(伊予日振島・藤原純友)の乱
源経基、小野好古が平定

村上天皇親政(天暦の治
乾元大宝
皇朝十二銭(708年和同開珎〜958年乾元大宝、250年)
960
趙匡胤即位:北宋建国
苦労の末に五代統一)
趙匡胤が後周から禅譲を受け宋(北宋)建国(960-1127)
節度使の力をそぐ、又禁軍を強化、官僚を軍人の上位に置く文治政治で皇帝独裁化
科挙制度導入
962 神聖ローマ帝国成立(962〜1806年)
 西フランクが西ローマ帝国を後継
(オットー1世苦労人
神聖ローマ帝国系図
(wikimedia 神聖ローマ帝国三王朝系図より)
963 高麗 宋に朝貢
969 安和の変(藤原氏にすりよる源氏武士)
(苦労苦心の排斥!)
冷泉天皇の時、関白藤原実頼等藤原氏による他氏排斥、左大臣・源高明(醍醐の子)を謀略で左遷、源満仲(経基の子)は藤原氏のために働く(摂関家ボディーガードとして名を挙げる武士)
摂関は常置となり藤原氏が独占したが、一方
藤原氏内部での権力闘争が激しくなる
兼通(兄)対兼家(弟)、道長(叔父)対伊周(甥)
最終的に藤原道長が”氏の長者”となって政権を独占
藤原氏系図
979
宋の太宗(趙匡義)北魏を滅ぼし華南十国を平定、中国を統一、都:開封
科挙を改良し皇帝の意のままになる官僚群を育てる事で、文治主義による皇帝独裁体制を取る
987 ユーグ=カペー即位:カペー朝成立
フランス王朝系図
(犬も食わないフランス王位)
988 尾張国郡司百姓等解文
農民の訴えで尾張守・藤原元命罷免
(くわばら!くわばら!やめろ元命(もとなが))
ロシアのキエフ公国がギリシャ正教を国教化
996 遼に朝貢
ドラマ:”千秋王后”は高麗・7代穆宗の母、歴史上6代景宗から実権を奪った妖婦・悪女と称されるが、ドラマでは逆に理想高く鎧を着て高麗を守った英雄として描かれている。勢力を拡大した契丹との戦いが見物である
11世紀 
  藤原氏にかげり、武士の台頭 
  前期 平忠常の乱
  後期 前9年・後3年の役
      白河院政
中世
5世紀西ローマ帝国滅亡→
西欧ゲルマン国家・東欧ビザンツ帝国・イスラム国家→
11世紀十字軍遠征を経て中世都市・貨幣経済発達→
13世紀モンゴル帝国(征服王朝)出現を経て
14世紀封建社会の崩壊→
15世紀

封建社会(成立から崩壊まで)
1004
セン淵の盟、遼が経済的利益の見返りに宋の安全保障

シーア派ブワイフ朝(932〜1062年)がバクダード占領
アッバース朝カリフ権力有名無実化
地方王朝自立
セルジューク朝(1038〜1157年)
ルーム・セルジューク朝(1077から1308年)
マムルーク朝(1250〜1517年)
オスマン朝(1299〜1922年)

イスラム世界 11〜18世紀
(「パクス・イスラミカの世紀 新書イスラームの世界2」(講談社 1993)より)
1010 遼の第二次高麗侵入
1016 藤原道長摂政へ 高麗が遼の柵封を受けるようになる
1017 道長太政大臣へ
1018 道長・望月の歌

道長は後一条・後朱雀・後冷泉、三代の外戚となって栄華を誇る(摂関政治)
遼の第三次高麗侵入(高麗・カンガムチャンの勝利)
1019 刀伊の入寇(女真族) 太宰権師・藤原隆家が撃退
(といくる(刀伊来る)!)
1026 金に朝貢
1027 道長没
藤原頼通50年間摂政・関白独占
1028 平忠常の乱(源氏の東国進出のきっかけ)
満仲の子・源頼信によって鎮圧、清和源氏の”東国進出”の契機となる
1038
鮮卑族後裔タングート族が大夏を建国
宋を苦しめる
1051 前九年の役(源氏は東国に地盤)
(一応合意?)
源頼義
(頼信の子、義家の父)・清原武則が安倍頼時を鎮圧(陸奥話記)
1052 末法第一年
1053 平等院鳳凰堂完成(頼通)
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