石田三成ここにあり!

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【戦国BASARA MMD】武将11人でロボットダンス【HD】
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1.47 min. | 4.968992 user rating | 79255 views
アノテーションでリンク貼ったよ。右下クリックで別バージョンにジャンプ。 自分のPCでどこまで配置出来るかテスト。 モーション読み込ませてそのままの状態です。 BASARAはモデルが豊富で楽しいです。モデラーさんに感謝!! みんな大事に使わせていただきます。 ★お借りしたもの★ モデル毛利元就・長曾我部元親・片倉小十郎...オッティー様石田三成・徳川家康...倭様伊達政宗・真田幸村・武田信玄...TETA様竹中半兵衛...このはる様前田慶次...Q様松永久秀...おのさか様モーション...sm12110015

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『劇場版戦国BASARA -The Last Party-』 Web用予告編
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戦国BASARA -The Last Party- 命を懸け、国を懸けた武将たちの戦い 今、関ヶ原で宿敵たちの最後の戦いが始まる― 時は群雄割拠の戦国時代、覇王・豊臣秀吉の起こした動乱は集結した。 だが、戦乱の世は未だ終わることなく、覇王の不在は新たな戦を日ノ本に呼ぶ......! 一つは奥州に闇あり。 伊達政宗の前に現れた修羅の如き凶王――名は石田三成。 崇拝する主、秀吉を失った慟哭と、主を討った怨敵・政宗に抱く私怨。それは政宗に後悔と傷を、そして戦国の世の裏で暗躍する者にその純粋な思いは利用され、世に再び乱世を呼ぶ。 一つは川中島に光あり。 武田と上杉の永き因縁に終止符が打たれようとした時に降り立った、槍を捨て己の拳のみを武器とする男――名は徳川家康。 「絆」の力を持って天下統一を成すとする決意、その理想。それは、真田幸村、前田慶次、長曾我部元親など、戦なき世を望む者たちの共感を呼び、陰る世界を照らす光になろうとしていた。 そして、関ヶ原に混沌あり。 私怨を叶えるため、戦なき世を創るため、己が野心のため。 宿命を背負いし武将たちは全ての決着を着けるべく、決戦の地・関ヶ原へ――。 だが、謎多き僧・天海の抱く暗き望みが関ヶ原に、そして日ノ本全土に大きな「禍い」をもたらそうとしていた......。

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『無双OROCHI2』 プロモーションムービー3
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絶望が、この世を喰らう。 PlayStation3/Xbox360用ゲームソフト『無双OROCHI2』 2011年12月22日発売www.gamecity.ne.jp ★初回限定特典王元姫&石田三成&妲己"サンタ"コスチューム【同時発売】豪華グッズ同梱! 無双OROCHI2 TREASURE BOX

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【HD】Wii 戦国無双3 PV ドラマ編
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【HD】Wii 戦国無双3 PV ドラマ編アクション編: www.youtube.com テーマ曲:Gackt「斬~ZAN~」「雪月花」 新キャラ(新キャラクター):立花宗茂 黒田官兵衛 甲斐姫 加藤清正 北条氏康 くのいち 竹中半兵衛 鷹丸戦国無双3 戰國無雙3 Sengoku Musou 3 Samurai Warriors 3 ムービー トレーラー戦国無双3 くのいち 甲斐姫 立花宗茂 黒田官兵衛 加藤清正 北条氏康 真田幸村 前田慶次 織田信長 お市 阿国 伊達政宗 森蘭丸 服部半蔵 濃姫 本多忠勝 稲姫 豊臣秀吉 浅井長政 ガラシャ 直江兼続 立花誾千代 石田三成 長宗我部元親 前田利家 風魔小太郎 戦国無双 戦国無双2 猛将伝 Empires 戰國無雙3 Sengoku Musou Samurai Warriors 3 無双 OROCHI 魔王再臨 PV CM Movie Trailer Koei コーエー Wii Gackt

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エースコインの姉妹品、「エース家紋 おしるこ味」をついに発見! やったー! 家紋って、デザインが洗練されててお洒落です。 「平安紋帳」を眺めていた経験のある私ですが、 石田三成氏の家紋は見たことなかったです ...。 ほんのり小豆味のビスケットです。(^o^)

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BASARA石田三成様の台詞集めてみた
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FROM NICONICO:sm12177566 。もし作成者様のご迷惑となるようでしたら確認次第、速やかに削除いたします。三成病推薦服用!!!

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戦国BASARA3 石田三成で関ヶ原 乱入 難易度:究極
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瀕死なのに、ノーダメージ達成(笑) 改造はしていません。 この装具と、この合戦場の特徴、三成の技性能を考えれば、だれでもできます。

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PS3/Wii 戰國BASARA 3 - 店頭宣傳影片
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8.82 min. | 5.0 user rating | 23065 views
(轉自巴哈姆特) 《戰國BASARA 3》是以日本戰國群雄爭霸為背景的《戰國BASARA》系列最新作,時代邁入終結戰國亂世的關原之戰,企圖一統天下的東軍統帥德川家康與繼承豐臣遺志的西軍統帥石田三成,將展開以天下為賭注的戰鬥。

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wiki

石田 三成(いしだ みつなり)は、安土桃山時代武将大名豊臣政権五奉行の一人。

生涯

秀吉の子飼い

永禄3年(1560年)、石田正継の次男として近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)で生まれる。幼名は佐吉。石田村は古くは石田郷といって石田氏は郷名を苗字とした土豪であったとされている(また、観音寺で学習していたとも言われる)。
羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が織田信長に仕えて近江長浜城(長浜市)主となった天正2年(1574年)頃から秀吉の小姓として仕える(天正5年(1577年)説もある)。秀吉が信長の命令で中国攻めの総司令官として中国征伐に赴いたとき、これに従軍した。
天正10年(1582年)6月、信長が本能寺の変により横死し、次の天下人として秀吉が台頭すると、三成も秀吉の側近として次第に台頭してゆく。天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いに従軍。柴田勝家軍の動向を探る偵察行動を担当、また先駈衆として一番槍の功名をあげたと「一柳家記」にある。天正12年(1584年)、小牧・長久手の戦いに従軍。同年、近江国蒲生郡の検地奉行を務めた。

豊臣政権下

天正13年(1585年)7月11日、秀吉の関白就任に伴い、従五位下治部少輔に叙任される。また、同年末に秀吉から近江水口4万石の城主に封じられた。
天正14年(1586年)1月、当時智勇兼備の名将として名高かった島左近を4万石のうちの半分の2万石の知行を与えて召抱えたといわれる。秀吉はこれに驚愕、そして賞賛し、島左近に三成への忠誠を促し、菊桐紋入りの羽織を与えた(ただし、佐和山19万石を得た時に家臣とした説、それとは別に秀吉からの寄騎であったとする説もある)。同年、越後上杉景勝が秀吉に臣従を誓うために上洛してきたとき、これを斡旋した。また、秀吉から奉行に任じられる。
天正15年(1587年)、九州征伐に参陣するが、武功を挙げたわけではなく後方の兵糧・武具などの輜重を担当していたと言われている。ただし、先年の四国征伐と同様に九州征伐が比較的短期間で終わったことは、三成という有能な行政官僚が輜重を担当していたからだとも言われている。九州征伐後、博多奉行となり博多復興に従事した。天正16年(1588年)、島津義久の秀吉との謁見を斡旋する。
天正17年(1589年美濃国検地する。天正18年(1590年)の小田原征伐に参陣。秀吉から後北条氏の支城の館林城忍城攻撃を命じられる。忍城攻めでは元荒川の水を城周囲に引き込む水攻めが行われ、その際の遺構が周囲に現存している。関東各地の後北条氏のほとんどの支城は本城である小田原城よりも先に陥落したが、忍城では小田原開城後の7月初旬まで戦闘が続いた。そのため、この城攻めは三成の戦下手の証拠であるとする書物が多いが、これには異説もある。 なお三成は、常陸佐竹義宣が秀吉に謁見するのを斡旋したり、奥州仕置の後、奥州の検地奉行を務めるなど着実に実績を重ねており、有能な行政官僚としての功績は相変わらず大きかった。
文禄元年(1592年)、朝鮮出兵文禄の役)が始まると朝鮮に渡海し、増田長盛大谷吉継とともに朝鮮出兵の総奉行を務める。文禄2年(1593年)、碧蹄館の戦い、幸州山城の戦いに参加。その後明軍の講和使謝用梓・徐一貫を伴って肥前・名護屋に戻るなど、明との講和交渉に積極的役割を果たしている。しかし、秀吉と現地の連絡役という立場の行動は、豊臣家中で福島正則ら武断派の反発を招いた。
文禄3年(1594年)、島津氏佐竹氏の領国を奉行として検地する。
文禄4年(1595年)、秀吉の甥・豊臣秀次を謀反の嫌疑により糾問する(秀次事件)。秀次の死後、その旧領のうち近江7万石が三成の代官地になる。また、同年に近江佐和山19万4000石の所領を秀吉から与えられた。
慶長元年(1596年)、佐和山領内に十三ヶ条掟書、九ヶ条掟書を出す。の講和使節を接待。同年、京都奉行に任じられ、秀吉の命令でキリシタン弾圧を命じられている。ただし、三成はこのときに捕らえるキリシタンの数を極力減らしたり、秀吉の怒りをなだめて信徒たちが処刑されないように奔走するなどの情誼を見せたという(日本二十六聖人)。
慶長2年(1597年)、慶長の役が始まると再び明・朝鮮との講和交渉に奔走するが不調に終わった。慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去すると、朝鮮に在陣していた諸大名の撤兵に尽力したと言われている。

秀吉死後

秀吉の死後、豊臣氏の家督は嫡男の豊臣秀頼が継いだ。しかし、次の天下人の座を狙う関東250万石の大老・徳川家康が次第に台頭してゆく。三成は秀吉死後の直後、慶長3年8月19日に家康を暗殺しようとしている。家康は覇権奪取のため、三成と対立関係にあった福島正則加藤清正黒田長政らと、豊臣氏に無断で次々と縁戚関係を結んでゆく。慶長4年(1599年)1月、三成は家康の無断婚姻を「秀吉が生前の文禄4年(1595年)に制定した無許可縁組禁止の法に違反する」として、前田利家らと諮り、家康に問罪使を派遣する。家康も豊臣政権の中で孤立する不利を悟って、2月2日に利家・三成らと誓紙を交わして和睦した。
しかし、閏3月3日に家康と互角の勢力を持っていた大老・前田利家が病死する。その直後、三成と対立関係にあった武断派の加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興浅野幸長池田輝政加藤嘉明の7将(史料によっては蜂須賀家政藤堂高虎の名もある)が、三成の大坂屋敷を襲撃した。しかし三成は事前に佐竹義宣の助力を得て大坂から脱出し、伏見城内に逃れていた。この後7将と三成は伏見で睨みあう状況となるが、仲裁に乗り出した家康により和談が成立し、三成は五奉行からの退隠を承諾した。3月10日、三成は家康の次男・結城秀康に守られて、佐和山城に帰城した(この事件時、三成が単身で向島の家康の屋敷に難を逃れたとする書物が多いが、これらの典拠となっている資料は明治期以降の「日本戦史・関原役」などで、江戸期に成立した史料に三成が家康屋敷に赴いたことを示すものはない)。
利家の死去・三成の蟄居により、家康の専横は再び活発になり、一旦白紙にしていた無断婚姻や秀吉の遺命で禁止されていた所領配分なども実施した。9月、家康が重陽の節句による祝意を秀頼に述べるため大坂に赴いたとき、三成の屋敷を宿所としたと言われている。

関ヶ原の戦い

慶長5年(1600年)7月、三成は家康を排除すべく、上杉景勝・直江兼続らと密かに挙兵の計画を図る(この密約は無かったという説もある)。その後上杉勢が公然と家康に対して叛旗を翻し、家康は諸大名を従えて会津征伐に赴いた。これを東西から家康を挟撃する好機として挙兵を決意した三成は、大谷吉継を味方に引き込もうとする。吉継は、家康と対立することは無謀であるとして反対したが、三成との友誼などもあって承諾した。これには秀吉存命の折の茶会で、らい病を患っていた吉継の膿が茶に落ちたとき余人が回し飲むのをためらった際、三成が吉継のためにそれを飲み干したためその友情に報いようとしたためという説もある。
7月12日、兄・正澄を奉行として近江愛知川に関所を設置し、家康に従って会津征伐に向かう後発の西国大名、鍋島勝茂前田茂勝らの東下を阻止し(ただし、鍋島勝茂は父・直茂より大阪の屋敷にとどまるよう命令されており、勝茂もこれをいぶかしんだものの、直茂は自分を三成に助勢させようという意図があるのだろうとして従ったとする説もある)、強引に自陣営(西軍)に与させた。7月13日、三成は諸大名の妻子を人質として大坂城内に入れるため軍勢を送り込んだ。しかし加藤清正の妻をはじめとする一部には脱出され、さらに細川忠興の正室・細川ガラシャ明智光秀の娘)に人質となることを拒絶され屋敷に火を放って死を選ぶという壮烈な最期を見せられて、人質作戦は中止された。
7月17日、毛利輝元を西軍の総大将として大坂城に入城させ、同時に前田玄以・増田長盛・長束正家の三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状を諸大名に公布した。7月18日、西軍は家康の重臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻めた。しかし伏見城は堅固で鳥居軍の抵抗は激しく、容易に陥落しない。そこで三成は、鳥居の配下に甲賀衆がいるのを見て、長束正家と共に甲賀衆の家族を人質にとって脅迫する。8月1日、甲賀衆は三成の要求に従って城門を内側から開けて裏切り、伏見城は陥落した。8月2日、三成は伏見城陥落を諸大名に伝えるべく、毛利輝元や宇喜多秀家、さらに自らも連署して全国に公布する。
8月からは伊勢方面の平定に務めたが、家康ら東軍の反転西上が予想以上に早かったため、三成は関ヶ原で野戦を挑むことを決める。そして9月15日、東軍と西軍による天下分け目の戦いである関ヶ原の戦いが始まった。当初は西軍優勢であり、石田隊は6900人であったが、細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に攻められたものの、島左近・蒲生郷舎舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。
その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。このとき、三成は極度の空腹から沢の水を飲み、生米を食べたため、下痢を起こしたと言われている。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継をはじめとする石田一族の多くは討死した。
9月22日、大津城に護送されて大津城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。9月29日、京都に護送され、奥平信昌京都所司代)の監視下に置かれた。
10月1日、家康の命により六条河原斬首された。享年41。首は三条河原に晒された後、生前親交のあった春屋宗園沢庵宗彭に引き取られ京都大徳寺の三玄院に葬られた。
また一説では、引き回された三成は影武者であり、本物の三成は高知へ逃げて自害したとも言われている。

辞世の句

逸話

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三杯の茶(三献茶)

近江国観音寺にのどの渇きを覚えた秀吉が立ち寄り、小姓だった三成に茶を所望したのを出会いとするもの。史料が江戸時代のものであること等から、創作と思われる。

三成と淀殿及び高台院

一般的に広まっている誤解に、三成は旧主(浅井氏)の姫である淀殿を崇拝していたというものがある。これは両者が近江出身ということからイメージされたものと推測されるが、三成の石田家はたしかに近江の土豪だが浅井氏とは敵対関係にあった。その意味ではむしろ「仇敵の姫」とも言える。
また、豊臣秀頼が豊臣秀吉の実子ではなく三成が淀殿と密通して生ませた子であるという説があるが、淀殿不行跡の史料的根拠である『萩藩閥閲録』において、その風聞があったのは秀吉の死後で、かつ相手も大野治長と記載があること及びこの話の出典が江戸中期以降ということから、現在では三成や淀殿を貶めるために。秀頼は文禄2年8月(1593年8月29日)生まれであり、前年の文禄元年6月から朝鮮半島に赴いていた三成が秀頼の父親であるとは考えにくい。
その一方で近年、三成は秀吉の正室である高台院と親密であり、逆に秀頼の母として政治に介入する淀殿とその側近を嫌っていたとする、これまでの通説とは正反対の説も浮上している。その論拠として、三成の三女辰姫は高台院の養女である(杉山家由緒書・岡家由緒書)こと、側近筆頭の孝蔵主は三成の縁戚で関ヶ原でも西軍のために大津城の開城交渉を行っていること、淀殿の周辺に三成ら西軍派の縁者がいないことなどがあげられる(詳しくは高台院を参照)。

人物像

評価

江戸時代には三成は悪人と見なされたが、明治に入ってもなお奸臣説が強く、秀次を讒訴したとか、秀吉自身は秀頼を家康に託すよう遺言したのに三成がそれに背き、天下を狙って家康と戦ったと説かれていた。三成の再評価を志した三井の朝吹英二は、三成の墳墓発掘などを行ったほか、歴史家・渡辺世祐に依頼し、渡辺は三上参次と協力して明治40年に『稿本石田三成』を上梓、三成奸臣説に論駁している。現在では実証的な評論が行われ、正確な三成像を描く模索が続いている。

肯定的材料

否定的材料

系譜

三男三女もしくは二男五女のほか庶子数人がいたとされる。
みつなり
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出典:「フリー百科辞典ウィキペディア」(2009-01-01)
Text is available under GNU Free Documentation License.
[石田三成]の改定履歴