< 木 喰 上 人 >

佐土原町上田島



金柏寺は伊藤義祐が建立した彼の菩提寺といわれ
現在五日町に釈迦堂があり
20センチほどの金銅製の降誕釈迦仏の像が残り四月八日の日は
この像に甘茶をかけてお祭りするのが佐土原の花まつりである。
木喰仏はこの堂に座る丈六仏である。



木喰上人は山梨県西八代郡古関村の生まれ
宝暦十二年木喰戒を受け、全国を遍歴
各地で仏像を刻み書軸を遺した。



日向路を訪れた上人は西都市三宅の国分寺で火災にあい寺は全焼した。
責任を感じた上人が本尊仏五智如来を彫り寺を再建したのは
寛政七年の春、八十歳であった。
その後鹿児島、熊本、長崎を順錫して同八年の末佐土原に足を留めた。
人々がこの地にも仏像を残してくれるよう懇願したからである。
上人はこの志をことわりかねて新町の油屋
斉藤休右衛門の家に宿り新しい年を迎えた。
人々は伊藤義祐の菩提寺であった金柏寺釈迦堂に安置する釈迦仏を
彫って頂こうとしたのである。
木喰は国分寺五智如来像の時と同じように
愛宕神社の池に材を浮かばせて大きな仏を刻んだ。
用材を寄進したのは油屋斉藤某で楠の大材であった。



仏体の裏には「帰命頂命」以下上人がよく用いる言葉が記してあるが
現在ほとんど消えて、作った年月を読むことはできない。
上人が斉藤家に残した准胝観音の小像に「寛政九巳三月十二日」と記してあるから
この大仏が完成したのは二月であったのだろう。
明治十年西南の役の兵火のよって堂宇は炎上した。
人々は大仏を救おうとして漸くその上半身を取り出したが
あとは手がつけられなかったという。
今は座脚と蓮台と光背を缺ぎ上半身だけの釈迦如来が
小学校プール東側に移転再建されたお堂内の右側に安置してある。
顧みる人もなく、上人に関する伝承も僅か古老の淡い記憶に留まるに過ぎない。
原型は一丈五、六尺もあったろうか。
像は朽ちた箇所が多く痛みがひどいが
作ははなはだ勝れ単純な手法、手を衣の中に束ね
瞑想三昧に入る世尊の相貌は彼の大作中の優品である。
(民芸運動の指導者”柳宗悦”がこの釈迦像を訪ねて「大作中の優品」と評している)
花まつりには遠近の村々から信徒が集まり
農具を中心とした市がたって賑わっていた。
尚、金柏寺は明治4年廃仏毀釈で廃寺となっている。


”身を捨つる 身はなきものと 思う身は 天一自在 うたがいもなし”

”仏法は 唯深からず 浅からず 人は人なり 我は我なり”

”風ふかば 心の雲を 吹き払い いつも涼しき 十五夜の月”

”朝日さす その日に向かう 国分寺 国安の人を 守る五智山”

”木喰の 心にひらく 白蓮華 われよりほかに だれかしるべし”

”まるまると まるめまるめよ わが心 まん丸丸く 丸くまんまる”

”木喰の かたみのふでの おもかげを よくよくみても 南無阿弥陀仏”

”身を捨てて 浮かむ瀬もなく おれにによ 済度の道に 叶わぬはなし”

”巳の年も まめでうち込 福は内”

”めでたさを 重ねて飲むや 若えびす”

”大黒と 七福うちへ とりさかな”

”みな人の 心をまるまる まん丸に どこもかしこも まるくまん丸”

”皆人の 心ごころを まるばたけ かどかどあれば ころげざりけり”

”笠をきて したのなげきを みる人は 又くる春は 人のつかさぞ”

”笠きても したのなげきを しらざれば 又くる春は いぬか馬うし”

”法身は 生極道の しるべしや 心の外に しる人もなし”

”一宿を 願ふてみても 庄屋さま 法度法度で 一石六斗”

”一宿を 願ふてみれば 法度だと 住持の心 やみぢなりけり”

”行暮て 法度もしらず こひければ 和尚の心 やみぢなりけり”

”いましめの 法度法度は いらぬもの 寺役は所の 不吉なりけり”

”儒仏神 丸めてみれば かどもなし はなしてみれば 他人なりけり”

”発心の 心のかみは そりもせず けさや衣の まえもはずかし”

”木喰の 鼠衣は よけれども ねこやいたちは かたきなりけり”

”木喰の 鼠衣は つつみをく 恥と恥辱は かたみ成りけり”

”東西や 南に来る 大旦那 すすめだませし 罪もこれきり”

”木喰の すすめの種を まきおかば 大作人と 人はいふらん”

”木喰の けさや衣は やぶれても まだ本願は やぶれざりけり”

”木喰の 唯本願を うそにせば うその中より 出る本願”

”願主には なにが成かと 思ひにし 人間くずか 阿呆成りけり”

”いつまでか はてのしれざる たびのそら いづくのたれと とふ人もなし”

”三界を のぞいてみれば あめがした ぬれた姿は みじめなりけり”

”発心の 道をとふりて ながむれば なみだの中に なむあみだ仏”

”迷ふたり 里も見えざる 片田舎 ことわからじと 思ふわが愚痴”

”鰹魚汁 阿字に味ある あじなれば なんぼくふても ささわりもなし”

”うますぎて 味もわからぬ 鰹魚汁 衆生の人の 馳走なりけり”

”なむあみに 皆すくはるる うをさかな なまぐさひとも おもわざりけり”

”客僧の 五濁五逆の 心ざし すこしくふのが 馳走なりけり”

”徳利に 茶碗一つも あるならば 六分波羅密 偽のあんらく”

”正月は もち酒さかな ととのへて あまりくらふて うごかれもせず”

”木喰も そばのこどもに だまされて まだも浮世に うろたへておる”

”けむどんや 二八がそばに 立ちよれば 亭主のそばの はなれにくさよ”

”うちむちも 内儀のそばの 手盛りかな 亭主の心 からみ大根”

”けむどんや そばのこどもを 打はたく 内儀はそばに からみ大根”

”茶屋にきて 道をとふても 取り合わず 内儀のつらに 二八けんどん”

”そばの子を うつもはたくも いらぬもの かくはけんどん 亭主はからみ”

”ねけてでる 心のそこも ぬけたやら ふぬけ六分の こしぬけしゃくし”





<木喰上人の年譜>

享保三年(1718)
甲斐国古関村(山梨県)丸畑の名主
伊藤六兵衛の次男として生まれる。

享保十六年(1731) 十四歳
江戸に出てさまざまな奉公にはげむが浪人無職になることも度々あった。

元文四年(1739) 二十二歳
大山不動尊(神奈川県)に参詣中
古義真言宗の僧大徳に仏道を説かれ出家する。
この後、二十三年間各地を遍歴、寺々の住職などをする。

宝暦十二年(1762) 四十五歳
常陸国(茨城県)羅漢寺の木喰観海上人より木喰戒を受ける。
僧名を「行道」、肩書きを「三界無庵無仏」と称する。
日本廻国を発願するが十二月に羅漢寺が焼失し
師観海上人とともに再建に奔走した。

安永二年(1773) 五十六歳
日本廻国の大願を起こし
板東・秩父の霊場など関東一円を巡歴する。

安永五年(1776) 五十九歳
北関東から東北を廻国する。

安永六年(1777) 六十歳
丸畑に帰郷、明和七年(1770)に父、安永四年(1775)には母が
亡くなっているので墓参のためと思われる。
一ヶ月ほど滞在して東北へ向かう。

安永七年(1778) 六十一歳
東北各地(福島・宮城・岩手・青森)を経て
六月中旬北海道に渡る。

安永八年(1779) 六十二歳
北海道の太田権現の窟で百二十三年前に円空が残した仏像に接して
仏像を作ることを志した。
現存する最古の木喰仏二十余体が残る。

安永九年(1780) 六十三歳
五月中旬、江差を発ち東北を南下、下野国栃窪(栃木県)に滞在する。
薬師堂を建立し併せて本尊と両脇侍、十二神将を造立する。

天明元年(1781) 六十四歳
栃窪を去る。江戸から上信地方を経て新潟へ行き、佐渡に渡る。

天明五年(1785) 六十八歳
佐渡両津に九品堂を建立。この頃天明の大飢饉。
五月中旬佐渡を発ち新潟に渡り、蒲原郡など経て丸畑に帰郷する。

天明六年(1786) 六十九歳
中部・北陸など再び廻国し、和歌山に至る。

天明七年(1787) 七十歳
西国三十三カ所に納経、岡山から四国に渡る。

天明八年(1788) 七十一歳
三月四国遍路を終え、伊予国八幡浜(愛媛県)から
九州豊後国佐賀関(大分県)へ渡る。
そこから南下し日向国へ、三月六日白石(北川町)
十日加草(門川町)、十一日平岩(日向市)、十六日一の宮(都農町)
そして日向国分寺(西都市)に納経する。そこでは村民に請われて住職になる。

寛政三年(1791) 七十四歳
正月二十三日国分寺が焼失する。同寺再興のため各地を行脚する。

寛政四年(1792) 七十五歳
国分寺の本尊である五智如来像の彫刻に着手する。

寛政五年(1793) 七十六歳
日向国分寺の再建なる。
この頃より「天一自在法門」「木喰五行菩薩」を自称するようになる。

寛政七年(1795) 七十八歳
佐土原(佐土原町)を発ち、鹿児島・熊本・佐賀を経て長崎へ巡礼する。

寛政八年(1796) 七十九歳
長崎で『青表紙和歌集』を著す。
北九州を巡礼し年末に日向国分寺に帰る。

寛政九年(1797) 八十歳
佐土原の金柏寺釈迦如来像を完成し、四月日向国分寺を去る。
六月小倉から下関に渡る。

寛政十年(1798) 八十一歳
山陰・山陽を巡錫、各地に多くの仏像を彫刻する。

寛政十一年(1799) 八十二歳
四国周防より四国へ渡り、五十二番霊場大山寺から八十八カ所を順打ちする。
九月愛媛から大阪へ渡り、東海道を静岡へ巡礼する。

寛政十二年(1800) 八十三歳
十月丸畑に帰郷する。

享和元年(1801) 八十四歳
村の永寿庵に五智如来像を彫刻、四国八十八カ所霊場の本尊を造立する。

享和二年(1802) 八十五歳
正月四国堂が完成、二月開眼法会を行い、三月再び廻国に出て新潟へ。

享和三年(1803) 八十六歳
小栗山観音堂(小千谷市)で三十三観音堂を造立。一千体造仏を願う。

文化二年(1805) 八十八歳
正月、米寿を祝い木版画を作成する。
枇杷島(柏崎市)新潟滞在中二百数十体の仏像を彫る。

文化三年(1806) 八十九歳
新潟を発ち、四月に長野、八月生家に帰り、秋、京都に上る。
清源寺で十六羅漢作製中に夢を見て「~通光明明満仙人」と自称する。

文化四年(1807) 九十歳
二千体造仏を祈願する。自刻像の背銘に「二千体ノ内」
兵庫県下に三十余体。近畿地方を出て信州諏訪地方へ。

文化五年(1808) 九十一歳
三月甲府へ巡錫、各寺で像造。これ以降消息不明、入定したとも伝えられる。

文化七年(1810) 九十三歳
生家に届けられた笈箱に紙の位牌があり
文化七年六月五日に入滅したとある。
入定地は不明。






戻る
戻る